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美術木彫師・河合賢申による彫刻。当研究会の象徴的な彫刻である「国生み–日本濫觴」の製作風景を紹介します。
だんじり彫刻研究会の象徴的な彫刻「国生み–日本濫觴」。当研究会の代表、美術木彫師の河合賢申による渾身の作です。
江戸時代中期に大坂の夏祭で誕生し、その後、摂河泉、瀬戸内海域の祭に広がったダンジリ(太鼓台・地車)は、神賑(かみにぎわい)の祭具として、地域の祭の中で育まれてきました。その中にあって、随所に施された彫刻は、多くの人々の心を惹き付けました。
龍や唐獅子のような聖獣、花鳥風月、日本神話、人形浄瑠璃や歌舞伎で語られた合戦物や仇討物など、趣きの異なる様々な彫刻が、ケヤキやヒノキに刻まれてきました。「だんじり彫刻師に彫れないものはない」といわれる所以です。
だんじり彫刻は、大坂や播州などでも盛んでしたが、明治に入って隆盛を極めたのが、淡路島です。全国的に有名となった岸和田祭の地車の彫刻の中には、淡路出身の彫刻師が手がけたものが少なくありません。
現在、岸和田を中心として泉州域(大阪府南部)で活躍する彫刻師の多くは、その源流を遡ると淡路の彫刻師に辿り着きます。ところが、その淡路では、かつて、淡路から数々の名彫刻が生み出されたことを知る人は少なくなっているのが現状です。
一方で、岸和田においても、一昔前までは「淡路彫」という言葉がよく聞かれ、「美木彫家・あわじ」と、作品の墨書に記した彫刻師もいました。しかしながら、近年は、だんじり彫刻を通した岸和田と淡路との繋がりを記憶する人も少なくなってきています。
淡路なくして岸和田なし
岸和田なくして淡路なし
このような「岸和田と淡路との文化的な縁を取り戻したい」との想いが、そもそもの当会の始まりでした。その志の象徴として製作したのが、河合賢申による「国生み–日本濫觴」です。
淡路彫の心と技を受け継ぎ、淡路系の岸和田彫を体現する彫刻師として、数々の地車や太鼓台、社寺の彫刻を手がけてきた河合賢申が、匠の技を用いて、淡路島で生まれた国生みの神話を彫り上げました。
イザナギとイザナミの二柱の神に岸和田と淡路の姿を重ね、大胆に、そして、丁寧に、心を込めて、ノミを叩きます。雲中の二神の眼下には、淡路島を中心に摂河泉・瀬戸内の海が広がります。
だんじり彫刻には、無限の可能性があります。新たな物語を紡ぐべく、今日も明日も、実直に、木と向き合う日々が続きます。
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江戸時代中期に大坂の夏祭で誕生し、その後、摂河泉、瀬戸内海域の祭に広がったダンジリ(太鼓台・地車)は、神賑(かみにぎわい)の祭具として、地域の祭の中で育まれてきました。その中にあって、随所に施された彫刻は、多くの人々の心を惹き付けました。
龍や唐獅子のような聖獣、花鳥風月、日本神話、人形浄瑠璃や歌舞伎で語られた合戦物や仇討物など、趣きの異なる様々な彫刻が、ケヤキやヒノキに刻まれてきました。「だんじり彫刻師に彫れないものはない」といわれる所以です。
だんじり彫刻は、大坂や播州などでも盛んでしたが、明治に入って隆盛を極めたのが、淡路島です。全国的に有名となった岸和田祭の地車の彫刻の中には、淡路出身の彫刻師が手がけたものが少なくありません。
現在、岸和田を中心として泉州域(大阪府南部)で活躍する彫刻師の多くは、その源流を遡ると淡路の彫刻師に辿り着きます。ところが、その淡路では、かつて、淡路から数々の名彫刻が生み出されたことを知る人は少なくなっているのが現状です。
一方で、岸和田においても、一昔前までは「淡路彫」という言葉がよく聞かれ、「美木彫家・あわじ」と、作品の墨書に記した彫刻師もいました。しかしながら、近年は、だんじり彫刻を通した岸和田と淡路との繋がりを記憶する人も少なくなってきています。
淡路なくして岸和田なし
岸和田なくして淡路なし
このような「岸和田と淡路との文化的な縁を取り戻したい」との想いが、そもそもの当会の始まりでした。その志の象徴として製作したのが、河合賢申による「国生み–日本濫觴」です。
淡路彫の心と技を受け継ぎ、淡路系の岸和田彫を体現する彫刻師として、数々の地車や太鼓台、社寺の彫刻を手がけてきた河合賢申が、匠の技を用いて、淡路島で生まれた国生みの神話を彫り上げました。
イザナギとイザナミの二柱の神に岸和田と淡路の姿を重ね、大胆に、そして、丁寧に、心を込めて、ノミを叩きます。雲中の二神の眼下には、淡路島を中心に摂河泉・瀬戸内の海が広がります。
だんじり彫刻には、無限の可能性があります。新たな物語を紡ぐべく、今日も明日も、実直に、木と向き合う日々が続きます。